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第2回民友新聞掲載 平成26年5月15日朝刊(掲載許可済)
福島市・福島大学名誉教授(日本木球連盟会長 新谷崇一氏) タイ木球協会会長 Dr.パットの奥さんと今回の主人公である”ニッポン”です。 「以下原文」 題:微笑みの国タイからの来客 国際木球連盟副会長 新谷崇一 12年前の2002(平成14)年10月、福島市で第1回日本オープン木球国際選手権大会がタイ、台湾など5ヶ国と4地域からの参加で開催された。その中に今回の主人公である通称、Nippon. Kさんも参加していた。 彼女の名前はタイ語でNipanan Kridiborworn と書く。当時15歳であった彼女はこの大会に選手としてではなく、両親と両祖父の5人で、観光目的で参加していた。彼女がNippon. K と自称するようになったのは、母方の祖父が日本に来た記念にということで、タイ語のNipanan (ニパナン)は日本語のNippon (ニッポン)に似ているので、これから“ニッポン”と呼ぶことにしようとなったからである。 帰国後、彼女は当時の原町市(現、南相馬市)木球協会の渡部光明会長と手紙を通して、日本の情報を入手していたようである。現在、“ニッポン”は27歳になり、将来は眼科の専門医になりたいと頑張っているが、日本への思いは募るばかりで、今回、母親と日本の富士山と桜を見に行こうとなり、来日となった。 勿論、来日の目的には福島市再訪問も含まれていた。それは12年前の記憶を辿るだけでなく、2004(平成16)年のスマトラ島沖地震の津波で大打撃を受けたタイと同じ状況にある、東日本大震災による津波の爪痕が残る被災地に祈りを捧げるためでもあった。 私達は渡部元会長の案内で、南相馬市の萱浜や渋佐浜地区を巡った。既に瓦礫は取り除かれ、広々とした更地になっていたが、「ここに集落があったんですよ。」と言う渡部元会長の説明に、彼女達は両手を合わせて無言で頭を下げていた。 彼女達が心配していたもう一つは、原発による放射能であった。渡部元会長は「当時、放射能を避けるために八王子市に避難していました。」と言うと、彼女は「それは正しい選択です。そのお陰で日本の叔父いちゃんに会えたんです」と微笑んでいた。 2泊3日の短い福島滞在であったが、“ニッポン”は私達から一生懸命、日本の文化を学ぼうとしていた。日本語はもとより私達が忘れかけていた、日本特有の礼儀である、皆で一緒に「いただきます。ご馳走さま。」もその一つである。“ニッポン”は私達が席に着くまで箸を持ちませんでした。 福島市の新幹線のホームで抱き合って別れを惜しんでいた時、彼女の目には涙が溢れていた。その涙の中に福島の“今”がビッシリと詰まっているでしょう。そして、憧れの富士山、桜も然りである。 次回(6月19日)に続く、ご期待ください。 ◇以上がみんゆう随想の掲載内容です。皆様からのコメント大歓迎です。よろしくお願いいたします。 日本木球連盟・広報部 END
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